【令和の貧窮問答歌】

 コロナが原因で職を失い今なお仕事にありつけない人がいるかと思えば,コロナ以前のようには仕事ができなくなって大きく収入の減った人もいる。また信じられないことに,2020年10月末の時点で,一部地域で10万円の給付金を受け取れていない事例がわずかながらあったというツイートも目にした。そういう人たちの気持ちを,井上陽水「傘がない」の替え歌にしてみた。

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「金がない」

コロナ禍で 死んでゆく 人たちが 増えている
今朝見た つぶやきの 多くが 触れていた
だけども 問題は 今日も俺 金がない

生きなくちゃ 君のために生きなくちゃ
君とともに生きなくちゃ からけつで

薄い財布が 今日は特に軽い
家族のこと以外 考えられなくなる
それはいいことだろう?

テレビでは まやかしの GoToの 問題を
誰かが 嬉々として のんきに しゃべってる
だけども 問題は 今日も俺 金がない

生きなくちゃ 君のために生きなくちゃ
君とともに生きなくちゃ からけつで

薄い財布が 今日もまぶたに痛い
家族のこと以外 何も見えなくなる
それはいいことだろう?

生きなくちゃ 君のために生きなくちゃ
君とともに生きなくちゃ からけつで

生きなくちゃ 君のために生きなくちゃ
君とともに生きなくちゃ からっぽで

生きなくちゃ 君のために生きなくちゃ
君とともに生きなくちゃ 金がない
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「傘がない」では,都会の自殺者増加を報じる新聞や,我が国の将来の問題について深刻な顔で話すテレビの報道を目にしたことに触れている。ところが歌の主人公の目下の問題は,恋人に会いに行きたいのに雨が降っていて,しかも間の悪いことに傘がないということである。
社会情勢が危機にあるのに,色恋を優先するとは何事だという声が挙がるのに先んじて,「それはいいことだろう?」と歌う。

 もちろんいいことに決まっている。何しろ「君のこと以外は考えられない」と言えるほど愛する人がいるのである。何も心配することも憂慮すべきこともなく,おだやかに,平穏な暮らしの中で純粋に人を慈しみ,幸せに暮らしたいという素朴な願いが「悪いこと」であるはずがない。

 そして現在,コロナ禍も政府の経済運営も,私たちの誰ひとりとして決して無視できない深刻な問題である。しかし個人としては,そういった問題よりも目下の生活や家族のことをまず優先する。それははたして批判されるべきエゴだろうか。「意識が低い」と糾弾されるべきことだろうか。政治経済や社会の危機を気にすることなくおだやかに不足なく暮らしたいと願うのを,いったい誰が責められるだろうか。

「千両みかん」と「サキちゃんのぶどう」

 落語に「千両みかん」というネタがあります。主に6月頃のジメジメとした梅雨の時期にかけられることの多い演題ですが、今なおダラダラと続く暑さ、やや遅れてきた感のある台風、そしてコロナ禍と、気の重くなることばかりが重なる今年は、あえてこの時期に取り上げてみてもよいのではないかと思います。

 噺の結末は、落語らしいばかばかしさを笑い飛ばせるものでありながら、同時にいくつかの思索を促す一面も備えています。落語は、その淵源に仏教法話としての性質も備えていたという事情もあり、あれこれ考えを巡らせる楽しさもあります。今日はその思索のきっかけをいくつか挙げてみます。

 また、高野山真言宗の僧侶である桐生俊雅師がYouTubeで、筋書きの一部が似通っていて結末の異なる話(実話をもとに構成されたとされるもの。このブログでは、タイトルを「サキちゃんのぶどう」としました)をシェアしておられるので、並行してご紹介します。

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目次

・「千両みかん」 あらすじ
・「サキちゃんのぶどう」 あらすじ
・助けを求めるという自己責任
・目的合理性と価値合理性
・向かう先の異なる慈悲
・寛容の能動性
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・「千両みかん」 あらすじ

 とある大きな商家の若旦那、患いついて長いこと床に伏せております。江戸で一番の名医と呼ばれる医者を呼んで診てもらうと、「体にはどこにも具合の悪いところはない。何か思い悩んでいることがあると見る。その悩みさえ解決できれば元気になるだろう」と言う。

 父である大旦那も「親の私にも言えないような悩みごとを抱え込んでいるのか」と心配になり、若旦那が赤ん坊の頃から親しく面倒を見てくれた番頭に、それとなく悩みを聞き出してくるよう命じました。

 若旦那の寝ている座敷で番頭が尋ねてみると、このところ寝ても覚めても頭から離れないことがあると打ち明ける。

「あの、やわらかな・・・ふっくらとした・・・」
「あぁ、なるほど。そうでしょう。誰でも若い男ってものはそういうものなんですよ。何もきまりが悪いなんてことはありません。あたしにも若い頃にはそういった覚えがありましたからね」
「肌のつやつやとした・・・みずみずしい・・・香りのいい・・・」
「えぇえぇ、そうでしょう。どこかのご婦人のことをお思いになってらっしゃるんでしょう」
「そんなことじゃないんだよぉ」
「それじゃぁ、何なんです?」
「それが言えるくらいなら病気になんかなったりするもんか。口に出したところで、決して叶うはずのないことなんだよ。だから、黙って死ぬことにするから、このままそっとしておいてくれないか」
「そうはおっしゃいますが、言ってみなければわからないじゃありませんか。私にできることがあれば、命に代えてもお役に立ちますよ。おっしゃいなさいな」
「子どもの頃からわがままいっぱいに育ててもらった私だけどね、今度ばかりはどう逆立ちしたって叶うわけがないんだよ。望みを口にしたところで、親の心配も増すばかりだ。言うも不幸、言わぬも不幸なら、何も言わずに死ぬよ」
「二言目には死ぬ死ぬってぇますがねぇ、あなたも胸に何かが引っかかったまんまで死ぬのも気持ちよくないでしょう。そこまで死ぬと決めてらっしゃるんなら、せめて何かおっしゃってからにしてくださいな」
「そこまで言ってくれるんなら話をするけど、実はねぇ番頭、あのやわらかな・・・キメの細かい・・・みずみずしい・・・ふっくらとした・・・香りのいい・・・みかんが食べたい・・・」
「へっ?みかんですって?いい加減にしてくださいな、何事かと思ったじゃありませんか。そんなことでしたらお安いご用ですよ。みかんくらい、いくらだってご用意いたしますよ」
「本当かぃ?」
「もちろんですとも!」
「それなら番頭、よろしく頼むよ」

 事の次第を大旦那に伝える番頭。

「旦那さま、聞き出してまいりました。何事かと思ったら、みかんが食べたいとこうおっしゃるんですよ。なぁんだそんなことですか、お安いご用ですと申し上げましたら、若旦那の頬にぽっと赤みが差しました。みかんを召し上がりさえすればお元気になられるんですから、わけもないことです」
「ふむ、番頭・・・お前、本当にみかんを用意すると言ったのかぃ?この暑いさなかにみかんが買えるのかぃ?」
「・・・はっ!そうでした!買えません!あれだけ大騒ぎをしてようやく聞き出してみればみかんとおっしゃるので、なんだそんなことかと思ったとたんについ請け合ってしまいました。あいすみません、うっかりしておりました」
「うっかりで済む話じゃないよ、番頭。あれだけがっかりしていた者をぬか喜びさせておいて、やっぱりありませんでしたなんて言おうものなら、そのときこそぽっくり逝ってしまうよ。そうなったらお前は主殺しだ。直に手を下すわけじゃなくても、何より重い罪だよ主殺しや親殺しは。ことによっては江戸中引き回しの上逆さ磔だよ」
「そ、それは困ります!どうかご勘弁ください!」
「あぁ勘弁しましょう、赦しましょう、私はね。だけどね、主殺しとなればお上は赦してくださらないだろうね。どうするつもりだぃ?」
「ぐずぐずしててもしかたがありません。江戸は広いんでございますから、きっとどこかに一つくらいはみかんがあるかもしれません。今から探してまいります!」

 そうは言ったものの、真夏のさなかにみかんなど、どこにもあるはずがありません。それでも八百屋という八百屋を片っ端から回ってみましたが見つからない。しまいには鶏屋にまで飛び込んでみかんをくれと言い出す始末で大騒ぎ。その鶏屋の主人、この時分に八百屋をいくら回ったところで見つかるはずはないからと、神田多町の青物問屋街に万惣というみかん問屋があるからそこで聞いてみてはと勧めました。

 万惣にて、

「あの・・・みかん、ありますか?」
「はぃ、ございます」
「く、ください!みかんください!」

 取り乱したようにみかんをくださいと叫ぶ番頭の様子を見て、万惣の主人はあっけにとられたものの、すぐに店の若い者に声をかけて、みかんを囲ってある蔵を残らず開くようにと命じました。ところが酷暑のさなか、腐ってドロドロになったものばかりで、とても売り物になりそうなものは見つかりません。

「お客さま、おあきらめくださいまし。なにしろ今年はみかんの出来がたいへんよろしくて、甘みの強いものばかりでございました。そういったみかんは特に長持ちがいたしません。ごらんの通り、どの箱のみかんもすでにドロドロでございます」
「そ、そこをなんとか!どうしても一つだけでも買いたいんでございます。もう一度調べていただけませんでしょうか!」

 あまりに必死なので、主人ももう一度目を凝らしてよさそうなものを探しにかかりますと、たった一つだけまともなものが見つかりました。

「お客さま、これ一つだけでございますが、まともなものがございました」
「あ、ありがとうございます!おかげさまで人の命が二つ助かりました!」

 大げさなことを言う客だと思いながらも、たった一つとはいえ売り物になるみかんが見つかって主人も満足げ。

「そのみかん、おいくらでございましょうか?」
「・・・千両いただきます」
「せ、千両?!それはいくらなんでも買えません!高すぎます!十両盗めば首が飛ぶというこの世の中に、人の命が百人分じゃありませんか!そんな法外な!」

 ところが万惣の主人は落ち着いてこう言います。

「このみかん一つが千両というのは、私はむしろ安いと思います。この広い江戸で、みかん問屋ののれんを下げているのは手前ども一軒だけでございます。毎年、腐るのを承知でこうして蔵にみかんを囲っておりますのも、みかん問屋ののれんあればこそでございます。この暑いさなかにみかんを欲しいとおっしゃるお客様は五年に一度、あるいは十年に一度あるかなしかでございます。そのときに、みかん問屋の誇りにかけて、みかんがないとは言えません。商人はのれんを何より大事にいたします。毎年、蔵をまるごと一つ使って、こうしてみかんを腐らせております。ここに一つ見つかったまともなみかんは、これまで長年の間に囲ってきた何百箱、何千箱というみかん箱の中から残った一つでございます。手前どもは商人でございます。買い手がつきましたら、それまでの元はそっくり掛けさせていただきます。お見受けしたところ、あなたも商人のご様子。手前どものこの理屈がおわかりでしょうか」

 長年商家に勤めてきた番頭、この理屈は十分すぎるほど理解できます。しかし千両といえば現代の価値に直せば数千万円〜一億円もの大金。自分一人で請け合うことはできないので、すぐに店に取って返し、大旦那に報告しました。

「・・・というわけで、千両なんでございます。およそ法外なので、私一人では決められませんでした」
「千両?安いじゃないか」
「や、安い?でも、ほんの小さなみかんですよ。それがたった一つですよ」
「人の命は、千両、万両と積んだところで買えるものではないだろう。ましてや、せがれの命だ。早く買ってきて、せがれに食べさせてやっておくれ」

 力のある若い者を二人、差し担いで千両箱を担がせて万惣へ。それと引き換えにたった一つのみかんを買ってきて、若旦那の元へ。

「若旦那、たった一つでございます。申し訳ございません。でも、こうして見つかりました」
「あっ、本当だ!みかんだ!番頭、よく見つけてきてくれたねぇ。ありがとう!」
「お礼なら私ではなくて、これを買うお金を出してくださった大旦那さまにおっしゃってください。そのみかん一つ、いくらだとお思いになりますか?千両でございますよ!」
「千両?ふ〜ん・・・」

 大豪商のせがれとして贅沢いっぱいで育った若旦那、千両と聞いてもさほど心に響かない様子。腑に落ちない思いをしながらも、番頭は若旦那のためにみかんの皮を丁寧にむいて差し出しました。

「この皮だってきっと五両や十両の値打ちはございます。中身は十房ありますから、一房百両ですね。さぁどうぞ、お召し上がりください」

 若旦那、十分に味わいながら七房食べて満足しました。残った三房を番頭に手渡しながらこう言います。

「この三つのうち二つはお父つぁんとおっ母さんに、残りの一つは、いろいろ骨を折ってくれたお前が食べておくれ」
「さようですか、では遠慮なく私も頂戴いたします」

 受け取ったみかん三房を手に若旦那の座敷を後にした番頭、廊下でみかんを眺めながらつくづく考えました。

「私が当家に奉公に上がったのが十三のときで、それがもうそろそろ頭が禿げ上がってこようかという今だ。うまくいけば来年にはようやくのれん分けをしてもらえる。そのときに頂けるお金はせいぜい三十両か、まさか五十両は頂けないだろう。ところがこのみかんは三百両。これから生涯、鞭打って働いたところで、三百両なんて金はこの手に握れるものじゃない。三百両、三百両、三百両!!」

 番頭、みかん三房を持って、いなくなりました。

神さまの日記

beate bachmann:Pixabay

 数年前に見つけた海外のウェブサイトに載っていたショートストーリーを独自に翻訳したものをご紹介する。Andy Weirという人の作で、実によくできた興味深い話である。この筋書きについては、折に触れて何度も何度も考えた。かつては「なぜ生きるか?」と自問することが多かったが、今はむしろ「どう生きるか?」に関心が移った。そうすると、このストーリーの捉え方も変わってくる。

 原文のタイトルは「The Egg Theory(たまご理論)」だが、内容から工夫し、あえて「神さまの日記」とした。

原文のURL:The Project Avalon Forum
http://projectavalon.net/forum4/showthread.php?44796-The-EGG-theory

「神さまの日記 ××年△△月◯◯日」

 家に帰る途中でお前は死んだ。

 交通事故だ。よくあることとはいえ、運命の分かれ道というわけだ。妻と二人の子どもが後に残された。痛みを感じる暇さえない死だった。さすがの救急隊員も手の施しようがなかった。体がすっかりバラバラになったのは不幸中の幸いかもしれん、いや本当に。

 そんなわけでお前と私は顔を合わせた。

「何が・・・何が起こったんだ?」お前は尋ねた。「ここはどこだ?」
「お前は死んだのだ」私は言い放った。事実は事実、言い繕っても仕方がなかろう。
「たしか……トラックが横滑りして……」
「そうだ」
「わ、私は死んだのか・・・」
「うむ、だがそう悲観するな。誰だって死ぬのだ」
お前はあたりを見回した。無の世界。お前と私がいるばかりだ。「この場所は何だ?死後の世界か?」
「そんなところだ」
「あなたは神さま?」
「いかにも。私が神だ」
「子どもたちは……妻は」
「どうかしたか?」
「みんな大丈夫だろうか?」
「いいねえ。死んだ途端にまず気にかけるのが家族のことだとは。善人として生きたのだな」
お前は何かにとりつかれたような目をしていた。お前の目には、私の姿は神らしくは見えなかったのだろう。ただの男、いやもしかすると性別すら曖昧だが威厳はあるというところか。どちらかと言えば文法の教師に近いかも知れぬ、全能の神というよりは。
「心配無用、家族は大丈夫だ。子どもたちはお前を非の打ち所のない父親としていつまでも忘れないだろう。反抗期にもまだ早いしな。妻は表向きは涙を流しているが、実は秘かにほっとしているだろう。有り体に言えば、お前たち夫婦の仲は壊れかけていたのだ。せめてもの慰めがあるとすれば、ほっとしている自分にいささか罪悪感を感じるはずだ」
「そうか。それで、これからどうなるんだ?天国とか地獄とかそんなところに行かされるのか?」
「違う。お前は生まれ変わるのだ」
「ああ、ということはヒンズー教の言うことが正解だったのか」
「宗教はいずれも正しい。解釈の相違があるだけだ」

「さあ、歩こう」
お前は私の後をついてきた。『形なくむなしい』地をずんずん進んだ。「どこへ行くんだ?」
「どこだっていいさ。ただ歩きながら話をするのも悪くなかろう」
「はっきりさせたいんだが、生まれ変わったら黒板を消したみたいにリセットされるんだろう?赤ん坊として生まれて、これまでの経験も何もかも帳消しになると」
「それは違う!これまで生きたすべての人生で得た知識も経験もことごとく自分の中に残されているのだ。今はことごとく忘れているがな」
私は足を止めてお前の両肩に手を置いた。「魂は、お前の想像以上に驚異的で美しく並外れて偉大なものだ。人間の意識に収まることなど自分自身のほんの一部でしかない。コップに指を浸して冷水かお湯かを確かめてみるようなものだ。体のほんの一部をちょっと浸けて引っ込める。お前が得た経験はそれだけのことだ。人間として四十八年ばかり生きたところで、体をまるごと投げ出して計り知れない意識の残りの部分に浸る感覚を味わったわけではないのだ。今ここでぐずぐずしていれば、だんだん何もかも思い出し始めることになる。しかし生まれ変わりの間で思い出してみたところでしかたがない」
「なら、これまで私は何度生まれ変わってきたんだ?」
「そりゃもう何度も。山ほど、どっさりだ。何度も何度も別の人生を生きてきた。 今度は西暦540年の中国で農家の女の子として生きることになるぞ」
「ちょ、な、何だって?」お前の舌がもつれた。「過去に戻って生きろというのか?」
「事実を言ったまでだ。お前の知っている時間の概念は人間の住む宇宙にしか存在しない。私がやってきたところでは状況が異なる」
「どこから来たんだ?」
「さあな、どこかからだ。ここではないどこか。そこには私以外の者もいる。どんなところだか知りたいだろうが、まぁ話してもわからないさ」
「そうなのか」お前は少し残念そうだった。「でも待てよ、あちこちに生まれ変わっているうちに、いつかどこかで自分自身と関わることもありうるんじゃないか?」
「もちろん。いつもそうだ。両者の人生はそれぞれ別個のものとして意識されているから、そんな事情があるとはお互い気づかないがな」
「結局、何のためにそんなことになってるんだ?」
「そう来るか?」私は聞き返した。「ここでそう聞くか?人生の意味を尋ねようというのか?少しばかりありきたりじゃないかね?」
「でも、筋違いでもないと思うけど」お前は食い下がった。
私はお前の目を見て言った。「人生の意味。そして私がこの宇宙全体を創った理由。それは、お前の成熟のためだ」
「つまり全人類に?私たちに成熟を望んでいると?」
「『たち』ではない。お前『だけ』だ。私が全宇宙を創ったのはお前のためだ。生まれ変わるたびにお前は成長し成熟し、より偉大な知性となる」
「私だけ?他の人たちはどうなるんだ?」
「他の人などいない。この広い宇宙にいるのは、ただお前と私だけだ」
お前は頭が真っ白という様子で私を見た。「でも人類が地球に……」
「すべてお前だ。異なる命に生まれ変わったお前の姿だ」
「つまり、私が全人類だと?」
「わかってきたようだな」生徒を褒める教師のように、私はお前の背中をぽんと叩いた。
「私がこれまで生きた全人類?」
「これから生まれる全人類でもある」
「アブラハム・リンカーンも?」
「ジョン・ウィルクス・ブースもだ」
「ヒトラーも?」お前はぎょっとした顔で言った。
「ヒトラーに殺された何百万人の人たちでもある」
「イエスも?」
「彼に付き従った者すべてもそうだ」
お前は黙りこんでしまった。

「誰かを犠牲にするたびに」私は続けた。「お前は自分自身を犠牲にしてきたのだ。他人への親切な行いはすべて自分に向けての親切だ。うれしいことや悲しいことを、どんな人間として生まれようとお前は経験してきたし、これからも経験するだろう。それらはすべてお前自身の経験なのだ」
 長い間お前は考え込んでいた。
「なぜ?」口を開くとそう言った。「なぜそんなしくみに?」
「それは、いつかお前が私のようになるからだ。それこそがお前なのだ。お前は私と同類。私の子だ」
「えっ」お前の声はいぶかしげだった。「つまり私は神なのか?」
「いや。今は違う。まだ胎児の状態だ。今もどんどん成長している。全人類の人生を生き切って初めて神の子として生まれる」
「ということは全宇宙は……」
「卵だ」私は答えた。「さあ、時が来た。次の人生に行って来なさい」

 そう言って私はお前を送り出した。

【漱石インスパイア】

2016年6月 実家にて 

 実家は私の住まいから徒歩5分以内の場所にあるが、特段の用事でもない限り行き来することはさほど多くはない。そのためか、実家で暮らす猫の「こむぎ」はかつて、私の顔をなかなか覚えてくれなかった。そういった時期のことを思い返しつつ、ある日撮ったこむぎの写真を見ながら数年前に浮かんだのが次のような文章で、それに少々手を加えてみた。

 何の役にも立たず何の学びも教養ももたらすものではない。我が家の日常の一場面とこむぎの様子を夏目漱石「吾輩は猫である」風に記しただけのごく短い戯れの紹介文である。時折そんなことをしながら文字を加えたり削ったりしていじくりまわしている。

吾輩は猫である。名前はこむぎ

 どこで生まれたものやらとんと見当はつかぬが、現在腰を落ち着けている北海道ではなかったということだけは、日々吾輩の食い物の支度をし何やかやと世話を焼く女主人から知らされた。平生は女主人とその老母が吾輩の面倒を見ていたが、老母は介護施設なるところへ一時転居(やうつり)したとのことで、この住まいにはおらぬ。女主人も老母も至って善良なる人間で心持ちよく交際できるのだが、ときたまやってくる大男の有り様には閉口する。なんでも女主人の兄だそうである。

 「毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」

 この世に来る前、ただ「吾輩」とのみ名乗りついぞ名を持たぬ猫は、人間をそのように描写していた。こんな片輪には一度も出会したことがないとも述懐していたが、この大男、顔はおろか頭にまるで毛がないとは恐れいった。ここまで来ると狐狸妖怪の類と疑わざるを得まい。

 何年も前のある日の午後、老母が昼餉を済ませて一刻ほども過ぎた頃だったか、この男が我が家にやってきたことが匂いで知れた。ことによっては退治してくれんと身構えておったが、戸が開いた時に見えた男の頭はその日は黒いもので装飾されていた。とはいっても毛ではない。真っ黒い小ぶりな編笠のようなものを乗せている。様子がいつもと違うのが不思議ではあったが、吾輩もいくらか興味をそそられた。長椅子の上に飛び乗って男の腹あたりに鼻を近づけると、男はごつごつした手を吾輩の頭に乗せてなでた。存外性質の悪い人間ではないのかも知れぬ。

 吾輩の暮らしている北海道という土地では、口から発する音声の抑揚に甚だ癖のある者に時々出会す。編笠の大男もその一人である。高くなり低くなり、かと思えば間延びしたような調子で、極めて呑気な性質を示しているように思われる。

 吾輩が男の腹に顔を持っていったのを、親愛の情を示したとでも思ったか、男は大げさに目をひんむいて声を裏返しながら、

「これはこれはご丁寧にどうも」

 などと人の機嫌を取る幇間のごとき言葉を発して編笠を取り、吾輩に向かってぺこりと頭を下げて見せた。途端に吾輩の目の前に現れたのはあのつるつると光る禿頭である。きゃっと叫び声を上げそうになったがそこはこらえた。ただ踵を返して走って逃げた。「牡に生まれながらなんてぇざまだ」と、「吾輩」君からその噂をたびたび聞かされていた「俥屋の黒」君などは嘲笑うやも知れぬが、気味が悪いのだから致し方あるまい。身を低くして足の長い飯台の下で身を低くして隠れて様子を窺っていると、男は老母と大声で笑った。

 「なんだ、お前はこの頭が怖かったのか。だからいつも逃げまわっていたのだな。は、は、は」

 珍奇きわまりないものをいきなり見せつけておきながら、なんだとはなんだ。とは思うものの、吾輩は人間の如く言葉を発して抗議する術を知らぬ。こんな時は努めて平静を装い、香箱などを組んで知らん顔を決め込むより他はないのである。

山下達郎と林家彦六

 このブログには、書物や落語の他に「時事」のカテゴリーも新たに加えることにした。関連するテーマについて綴ったものを、折に触れて残していこうと思う。

 今の時期、コロナウイルスの話題は避けて通れない。日本政府の対応に対しては、正直なところ私も腸が煮えくり返る思いであり、いくらでもヒートアップしかねない。すでにTwitterをはじめネット上は政権批判で溢れかえっており、そこへわざわざ煮えたぎる湯をあらためて注ぎ入れるまでもないので、さらなる批判や非難を繰り広げようというのではない。

 今日の話題は、コロナ禍の中で過熱する世論そのものに対する一つの捉え方である。

山下達郎、コロナ禍に伴う言論の混乱を語る

 さて、私は昔から山下達郎のファンである。

 「プロ」というよりも「職人」と形容するのがふさわしい、あの愛すべき頑なさには惚れ惚れする。音楽作りは言うに及ばず、あらゆる事象に対して、自らの立場や意見を美しい日本語で明確にするところにも好感が持てる。

 さてその山下達郎、昨日4月12日の東京FM「サンデー・ソングブック」で、現在のコロナ騒動とそれに対する日本政府の対応に関して渦巻く国民の怒りについて語った。その発言に対して、批判のツイートをいくつか見かけた。

 いわく、
 「『政治的対立はやめて団結しよう、批判はやめよう』との発言にがっかりした。酷い政治や愚かで極悪なリーダーへの批判は止めるべきではない」
 「すでに成功し安住を得た者の綺麗事に過ぎない」
 「長年のファンだが、もう聴かないことにした」
(いずれも大意)

 これほどの批判が集まるからには、山下達郎はよほどの発言をしたのかと気になり、radikoのタイムフリー再生で確認してみた。以下にその発言全体を、聞こえた通りにほぼ切り取らずに書き起こす。(ただし「え〜」「あ〜」「まぁ」などのつなぎの言葉は適宜省略した)

――――――――――――――――――――

 非常事態宣言が出されました。

 それに対していろいろな声があります。普通に社会生活を送っている人にとって、家に篭って外へ出るなという、また中小の経営者にとって、店舗の営業を自粛せよという今の状況に対して不安のない方など一人もおりません。怒りのない方だって一人もおられないと思います。みんなジリジリした気持ちです。それを口にしたい衝動をみんな抱えています。

 政治の不甲斐なさ、不明確さ、いつものごとく官僚の責任意識の曖昧さ、行政の拙速さ、企業の保身、メディアの的外れetc., etc….

 私くらいの年齢になりますと、いったい裏で何がうごめいているのかと、いろいろと想像が膨らんでしまいます。こういう現状の中で生まれる数々の不条理への戸惑いとか鬱憤、苛立ちを抑えきれずに、ある人はそれをネットに噴出させ、ある人はメディアを使ってぶちまけています。

 そうしたい気持ちは痛いほどわかります。私だって思い切り怒鳴りまくりたい衝動があります。でも、そんなことをしても、ウイルスがなくなるわけではありません。毎日毎日メディアに登場する細部をつついては批判と罵倒に明け暮れている、そういうものが人々の不安をどれだけ煽っているか。なぜもっと寛容な、建設的な言動、行動がとれないのか、不思議でなりません。

 私はそうした政治的な言説にあまり深く立ち入らないように努めているんですけれども、でも今一番必要なのは、政治的利害を乗り越えた団結ではないかと思います。今、政治的対立を一時休戦して、いかにこのウイルスと戦うかを、この国のみんなで、また世界中のみんなで助け合って考えなければならない時です。

 何でも反対、何でも批判の政治プロパガンダはお休みにしませんか。責任追及とか糾弾はこのウイルスが終息してからでもいくらでもすればいいと思います。再三再四申し上げているように、こういうときは冷静さと寛容さが何よりも大事です。静かに落ち着いて物事を語りましょう。正確な判断は冷静さからしか生まれません。

 過酷な現場で働く医療スタッフはみんな、それぞれの思いを持ちつつも黙々と戦っていらっしゃいます。スタンドプレーのメディアピープルではなくて、そういう医療従事者のみなさん、見えないところで人知れず働く方々に思いを馳せましょう。彼らを励まし、盛りたて、我々は我々ができることをいたしましょう。今は、できるだけ他者との接触を避け、感染の広がりを防ぐ努力をいたしましょう。

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 この本人の声を聞き、文字に起こしてあらためて読んでみて、私にはこの発言に対して批判する感情は生じなかった。むしろ、トーンを抑えつつ言葉を選び、噛みしめるような誠実な一言一言には、幾重にも彼の感情が畳み込まれているようにさえ思えた。そのときふと思い浮かんだ人物がいる。八代目林家正蔵(彦六)である。

八代目林家正蔵という人

 「笑点」のレギュラー林家木久扇がときどきものまねをする通り、正蔵の声はヨボヨボで、どうにも頼りない老人のイメージしかない。しかし普段の正蔵はかなりの「トンガリ(短気であまのじゃくな頑固者)」だったというのは有名な話で、噺家や落語関係者の証言や後日談がいくつもある。

 そのうち真っ先に思い出したのは、人間国宝・十代目柳家小三治著「落語家論」 に記された正蔵に関する二つのエピソードである。

 一つは、稲荷町の自宅の前で近所の子どもたちがにぎやかに騒いでいたときのことである。あんまりうるさいので、二階にいた正蔵は窓をがらりと開け、欄干に足をかけて見得を切ってこう怒鳴った。

 「うるせぇ!静かにしろぃ。俺は天下の正蔵だァ!」

 高座での話しぶりからはとても想像できないが、そのくらい気の短いところがあったのだという。

 もう一つは、昭和30年代後半、若き日の小三治が、正蔵を座長に九州での落語会の旅に出かけたとき、次に訪れる予定の公演先から、お客が集まらないため予定をキャンセルしたいと連絡が入った。連絡を受けた小三治は当時まだ前座だったが旅の運営を預かる番頭役を任されていた。いきなりキャンセルだと伝えれば気の短い正蔵はきっと激怒し、手の施しようのない修羅場も予想される。そこで小三治は一世一代の賭けに出た。

 人が右と言えば左、左と言えば右という正蔵の性格を利用することにしたのである。つまり、中止の連絡をよこした事務局へ、正蔵の目の前で電話をかけて、いかにも怒り心頭の口調でこう怒鳴った。

 「いい加減なことを抜かしゃァがってふざけるなこの野郎。北風の強い日にてめぇン家の縁の下で焚き火をしてやるからそのつもりでいやがれ!」

 すると正蔵は、あの震える声でこう言った。

 「そんな乱暴なことを言うもんじゃないよ。向こうにも都合があるじゃないか」

 計略図に当たり、うれしかったと小三治は綴っている。

自分の筋を通す頑固者

 冒頭に記した通り、山下達郎は職人型に違いない。昔から、人知れず修行を重ねた職人には頑固者やあまのじゃくが多いと言われる。自らの腕への自負や信念ゆえ、人とは違う自分でありたいという意識を少なからず持っているのではなかろうか。政治的言説には深く立ち入らないようにしているという彼も、実は過去の放送内で政治に関する話題に触れたことがある。

 2016年東京都知事選挙投票日の放送での発言である。21名の候補者が乱立する選挙で、候補者の中に彼の知り合いもいたとのこと。その候補について前週放送分の収録で少々触れたのだが、特定の候補に関する言及を電波に乗せるのは放送法に抵触するからと全てカットされた。

 そのことについて彼は、腹に据えかねたというので投票日の放送で大いに吠えた。口調はいつもの通り淡々としていたが、よほど頭に来ていることがわかった。言うまでもなくその怒りは番組スタッフにではなく法律に対するものである。発言の要旨は次の通り。

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 本日は都知事選でございます。

 私はすでに期日前投票を済ませておりますが、先日こういう事態がありまして、とても腹に据えかねているわけでございます。ちょっと待て、であります。

 特定の候補のことを、放送においてとはいえ一都民、一個人が発言するのはダメで、報道においてはほぼあの3人(小池百合子、増田寛也、鳥越俊太郎)のことしか言及せず、その他の候補のことは話題にすら上らない。それはアンフェアではないのか、というわけでございます。

 権力とメディアの結託ぶりが見え見えなわけであります。そのようなわけで、私はたとえ死んでもあの3人にだけは投票しないつもりでした。

 何が放送法だ、くそくらえ!でございます。
 あぁスッキリした、エヘヘ。

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 放送法に限らず、法制システム全体が意味不明な部分を大いに抱えているし、それをふんわりと受け止める市民の「空気」も実はとらえどころがなく心許ない。そのあたりも意識していたのか否か、彼はズバッと斬った。信念に従い、言いたいこと、言うべきことを言い切ったという意味で、彼は彼のやり方で筋を通したのである。

身なりが変わっても同じ人

 このように、彼だってときには憤懣やるかたなしという口調で語るときもある。そして昨日の放送でも、彼自身思い切り怒鳴りまくりたい衝動はあると告白している。それはきっと本心だろう。一方それに続いて、もっと寛容な、建設的な言動、行動がとれないのか「不思議でならない」という言い方にSNSユーザーが特に反応したのではないかと想像している。怒りに震えているSNS上の人たちは、聖人君子の立場から彼が高説を垂れたように受け止めたのかもしれない。

 現在のコロナ禍がもはや戦時下と捉えられ、そこへ「団結」という言葉が飛び出してくると、70年以上前のあの戦時中の「国家総動員」的イメージを重ね合わせる人さえいる。それゆえ脳内で「軍靴の音」構文が出来上がってしまった人も少なからずいるだろう。その中であえて彼が言いたかったことの根幹はもっとシンプルである。つまり「建設的であろう」「冷静になろう」「最前線で戦っている人のために祈ろう」ということである。

 都知事選のときの彼は欄干に足をかけて見得を切った彦六で、昨日の放送のときの彼は電話の前で怒鳴った小三治をやさしくたしなめた彦六だっただけではないか。トンガリでも好々爺でも彦六は彦六だったように、吠えても柔らかく語っても山下達郎であることに違いはない。

 昨日と今日とで洋服が違って身なりが変わるのと同じように、昨日の気分と今日の気分が違うこともある。直情的にまくしたてるときも寛容で建設的な物言いをするときも、同じ人である。日常的に顔を合わせている相手でさえ、この人にはこんなところがあったのかと気づいて驚く経験は誰にでもある。ましてや、ラジオの向こうから、あるいはCDを通して声を聞くより他にない相手が意外な発言をしたからといって「ファンをやめることにした」とまで言うのは大げさではないか。

 誰もが自分自身を振り返ったとき、長年信じてきたことを大きく覆されて考えを改めることは頻繁にある。私にも嫌というほど心当たりがある。自分ほど当てにならぬものはない。まずは自分を疑うことである。つまり謙虚になることである。誰かを責めているときの自分は決して謙虚ではない。頼りにしていた相手に裏切られた気持ちになれば激しく責めたくなるのも無理はないが、もはや頼れないと心に定めたのならば、今後いかに頼らずに生きていくべきかを虚心に探ってみたほうが「建設的」である。

 誰もが様々な形で困難を抱える時である。誰もが苦しんでいる。今はまず、生き抜く方法を探ったほうがよい。一人でどうにもならなくても、生きてさえいれば手助けしてくれる人もきっと現れる。

 文句を言うのは生き延びた後でも十分間に合う。