最悪の事態
枕を並べ、しばらく懐かしい話をしていた二人はやがて眠りにつきます。酒の酔いも手伝ってぐっすり寝込んでしまい、やがて真夜中になります。
「ジャーン、ジャーン・・・」
遠くで半鐘の音が鳴りました。
「どこかで火事だな。あの音からすると、深川蛤町あたりじゃないか。おぃ竹次郎、行ってみなくて大丈夫か」
「えっ、火事!やっぱり心配した通りだった!まさかうちの店まで燃えてしまって・・・」
「すぐに行ってみろ!」
兄から渡された提灯を手に、急いで店に戻ってみると、あたりはすっかり火の海。真っ赤な火の向こうに、三つの蔵の影が黒く浮かび上がっています。野次馬をかき分けて店に着くと、番頭が待ち構えています。
「旦那さま、えらいことになりました。何しろ急なことで慌てましたが、大事なものはみんな蔵に入れまして、目塗りは済ませてありますのでご安心ください」
「それより、店の者はみんな無事か」
「はぃ、みんな無事でございます」
「それは良かった。それと、鼠穴もふさいでおいてくれたんだろうな」
「いえ、それが・・・申し訳ございません。鼠穴までは行き届きませんでした」
「あれほど念を押しておいたのに、行き届かなかったって・・・」
そんなことを話しているうちに、一番蔵の戸前から白い煙が出てきたかと思うと、あっという間に内側から炎が飛び出してきました。二番蔵、三番蔵も立て続けに炎を吐くと、あれよあれよという間に三つとも焼け落ちてしまいました。なすすべもなくただ呆然と見ているより他はありませんでした。
幸いなことに、女房も娘も奉公人もみな無事でしたので、みんなで力を合わせて焼け跡の脇ににわかごしらえの小さな掘っ立て小屋を建てました。火事の多かった江戸の商人は、店が燃えてしまっても、地べたの温みが取れないうちに掘っ立て小屋を建ててでもできるだけ早くに商売を再開するのが誇りとされていたそうです。
再開はしたものの、取引先からの仕事は途絶え、以前のように客もやって来なくなり、次第に店の経営は傾き始めました。次第に奉公人が一人また一人と去って行き、気がつくと親子三人だけ残されてしまいました。そうなっては表通りに店を張っているわけにいかないので、裏店に引っ込みましたが、ちょうどその頃に女房は病の床についてしまいます。
竹次郎はかいがいしく看病をしていましたが、これから先の商いをどうにかしなければならない。ところが火事で何もかも失ってしまい、売る品物の仕入れをする余裕もない。身動きが取れなくなったとき、再び兄に商売の元手を貸してもらおうと、7つの娘の手を引きながら出かけました。
兄の店で、
「兄さん!こんなことになっちまって、商売の仕込みも出来ねぇ。すまねぇがまたいくらか元手を貸してもらいてぇ!」
「おぉ、そうだな、よしよし貸してやる。いくらあればいいかな。まぁ、2両もあればいいか」
「いやぁ、昔は何も持ってなかったから2両もあったら何とでもなったが、今は女房も子どももいるんだ。店や蔵を建て直そうと思えば50両は貸してもらいてぇ」
「それは無茶だ。元のお前の身代なら、50両でも100両でも貸してやるが、丸焼けになっちまった今から立て直そうとしたって、どれほど稼げるようになるかわかったもんじゃない。女房や子どもだって、こっちから頼んで作ったもんじゃあるまいし、言ってみればお前の贅沢でしたことだ。50両なんて、出来ない相談だ」
「この間泊まったとき、兄さん言ったじゃねぇか。俺の身代みんなくれてやってもいいって」
「バカだなぁお前は。あれは酒を飲んで気が大きくなったからそんなことを口走っただけだ。俺が言ったんじゃなくて、酒が言ったことだ。それを真に受ける奴があるか。これで話は終わりだ、帰れ帰れ!」
竹次郎は叩き出されてしまいました。
元手を借りられず、がっくりとうなだれて娘の手を引きながら兄の店を後にしますと、娘が尋ねます。
「お父つぁん、いくらあったらご商売ができるの」
「お前にそんな話をしてもわからないだろうがなぁ・・・まぁ20両もあればぎりぎりどうにかなるかなぁ」
「そのお金、あたいがこさえるわ」
「お前みたいな子どもにそんな大金ができるわけないだろう」
「あたいを、吉原ってところに連れてって、お女郎に売ってちょうだい。あたいが本当のお女郎になる前に、その20両のお金でご商売をして儲けて、迎えに来てくれればいいでしょう。ねぇお父つぁん」
幼い娘にこんなことを言わせてしまった。情けなさに涙が止まらない竹次郎。しかし事ここに至っては背に腹は代えられないと、泣く泣く娘を売り、20両の大金を手にすることが出来ました。娘かわいさと名残惜しさに、見返り柳を振り返り振り返りしながら心の中で手を合わせておりますと、
「気をつけろぃ!」
風体の良くない男にどんと突き当たられたかと思うと、竹次郎はその場に倒れ、男はそのまま走り去ってしまいました。よろよろと立ち上がったときに懐を確かめると、さっきまで持っていたはずの20両がない。スリに盗られてしまったのでした。
とことん巡り合わせが悪く、運にも見放されたものと落胆した竹次郎、もはやこれまでと絶望の淵という有り様。きものの帯をほどくと、それを傍らの木の枝に引っ掛けて、大きな石を踏み台にして、帯で作った輪を首にかける。どうか娘が少しでも辛くないように、せめて体を壊すようなことがないようにと、念仏を唱えながら踏み台の石に乗ってそれを蹴飛ばしたその途端・・・
「うぅぅぅぅっ!うぅぅぅぅん・・・」
「おぃ・・・竹次郎。起きろ。おぃ、竹次郎!」
竹次郎をゆすり起こしているのは何と兄でした。
「はっ!ここはどこだ!」
「どこって、俺の家に決まってるだろう」
「なんで俺はここにいるんだ」
「昨夜来て二人で飲んで、それから寝たんじゃないか」
「でも、昨夜火事があったはず・・・」
「火事なんかないよ」
「でも店が焼け落ちて・・・あ、あの鼠穴!」
「お前さっきから言ってることがさっぱりわからんぞ。さては夢でも見たな」
「ゆ、夢・・・」
そう言われてやっと夢だと気づくと、竹次郎は汗びっしょりでヘナヘナとその場に崩れ落ちました。
「いったいどんな夢だったんだ」
兄に問われて一部始終を話しますと、
「そりゃまたえらい夢を見たもんだな。でもまぁよかったじゃないか。夢は逆夢と言うしな、火事の夢ってのがまたいいじゃないか。『燃え盛る』と言ってな、商売がますます盛るって、縁起がいいんだ。今度の春からお前の身代はますます大きくなるぞ」
「いやぁ、あんまり鼠穴が心配だったもんだから」
「ハハハ、夢は土蔵の疲れだ」
(おわり)
鼠穴が象徴しているものは、誰もが抱える、常日頃気にかけてきた心配事のことでしょう。普段から十分に備えをなし、心配になったら早めに手を打っておくべきだということです。そして、非常事態には速やかに次の一手を打つことや、地べたの温みが取れないうちにすぐに商いを立て直すという江戸の商人の誇りも見習うべきでしょう。

