ショッキングなタイトルである。読書という行為は読者を絶望にいざなうものだという主旨かと思いきやさにあらず。書物がいかに絶望する人に寄り添い、その絶望を共有し癒やすものであるかを、自らの体験を交えて静かに語る一冊だった。
深い悲しみの長く続く期間を経て、それを乗り越えた者がその後に得た心の平静、穏やかさを感じる文章である。多くの書物に触れ、身の回りをよく観察し、それらをいかに捉えたかを言葉で綴り合わせる能力に長けた人の文章であり、思わず膝を打つ箇所がいくつもある。
著者は「絶望したときにこそ本を読め」と勧める。絶望というほどのことではなくとも、何らかの失敗や苦難に悩むときに本が必要だということである。その勧めを証明するに先立ち、「はじめに」と「第一部」で絶望とは何かを定義し、絶望から立ち直るプロセスを示している。「第二部」では、絶望のときに応じたいくつもの「物語」(書物、落語、映画、ドラマ)のサンプルを紹介している。
その主張の要旨を私はこう捉えた。絶望は観念的なこと、心理的なことであるがゆえに、頭や心で解決するしかない。そのためには、泥縄ではなく備えのための読書によって「物語」に触れることが必要である、と。では、物語とは何か。
目次―――――――――――――――
・物語は現実の一部の縮小コピー
・「固定化された物語」にとどまるな
・転機に見出す新たな物語
・絶望の本が必要な理由
・「同質効果」と「異質への転導」
・読書と音楽
―――――――――――――――――
物語は現実の一部の縮小コピー
第一章に、こんなエピソードが載っている。
知能指数が60を下回る19歳の女性がいた。近所でも道に迷い、鍵でドアを開けられず、左右の区別や洋服の表裏、前後も判断できず、不器用でいつもおどおどしている。ところがある日、天気の良い春の日にベンチに腰掛けている彼女の様子を見ると、不器用でおどおどした様子は全くなく、その表情はきわめて穏やかで微笑みさえたたえた美しい乙女そのものだった。
彼女は元々物語が好きで、物語の持つ構成や調和を好んでいたという。自分自身を物語的な方法でまとめられる状態にあれば、彼女は「無傷で安全」である。彼女は世の中のことをよく理解できないからおどおどし、不器用になる。ところが、現実の縮小コピーたる物語の力を借りれば、自らの有りようを統一的に把握することができたというのである。
彼女のような特殊な場合だけではなく、誰もが多くの物語に触れておくべきだと筆者はさらに主張する。現実に遭遇する困難や想定外の出来事を把握しそれに対処することは難しくとも、そのような出来事の一側面を噛み砕いた物語だと理解しやすい。物語(フィクション、ノンフィクションを問わず)は現実の一つの象徴であり、言葉を用いて思考する人間にとって不可欠な栄養である。
「固定化された物語」にとどまるな
現実を生きようとすれば、他者からの影響によって(あるいは自発的に)一つの物語を紡ぎ出すことを余儀なくされる。その物語とは、多くの人の心に植え付けられる自身の人生の捉え方である。ここでいう物語の一例が、Daniel Quinn著 “Ishmael” ではこのような台詞で示されている。
“Get a job, make some money, work till you’re sixty, then move to Florida and die.”
「働いて、いくらか金を稼いで、60歳まで働いて、フロリダで隠居して死ぬだけさ」
このような物語の元に生きているのだと普段から意識している人はほとんどいないだろう。あくまでも現実そのものを生きているのだと考えて、日々の生活を送っている。そんなとき、急な病気や思わぬトラブルに見舞われたために物語の筋書きを変更せざるを得なくなり、思わずこう叫びたくなることがある。
「こんなのは自分の人生ではない」
しかし、人生はあらかじめ自分の書いたシナリオ通りには運ばない。いくら叫ぼうと、物語の書き換え(進むべき道の変更)が必要なことは事実である。速やかに新たな物語を構築しなければならない。その苦難に寄り添い、ときにヒントを与え、背中を押すものこそが物語すなわち書物である。謙虚な内省とともに新たな物語を構築しなければ、単なる無謀なごり押しに陥りかねない。思いつきで方針(物語)を打ち出し、一度こうだと言ったらてこでも動かない頑迷な経営者が、自ら標榜するその物語に固執するあまり、周囲を振り回しながらさらに混乱を招き事態を悪化させただけだった、というのはよくある一例で、私の実体験からも大いに心当たりがある。

