このブログには、書物や落語の他に「時事」のカテゴリーも新たに加えることにした。関連するテーマについて綴ったものを、折に触れて残していこうと思う。
今の時期、コロナウイルスの話題は避けて通れない。日本政府の対応に対しては、正直なところ私も腸が煮えくり返る思いであり、いくらでもヒートアップしかねない。すでにTwitterをはじめネット上は政権批判で溢れかえっており、そこへわざわざ煮えたぎる湯をあらためて注ぎ入れるまでもないので、さらなる批判や非難を繰り広げようというのではない。
今日の話題は、コロナ禍の中で過熱する世論そのものに対する一つの捉え方である。
山下達郎、コロナ禍に伴う言論の混乱を語る
さて、私は昔から山下達郎のファンである。
「プロ」というよりも「職人」と形容するのがふさわしい、あの愛すべき頑なさには惚れ惚れする。音楽作りは言うに及ばず、あらゆる事象に対して、自らの立場や意見を美しい日本語で明確にするところにも好感が持てる。
さてその山下達郎、昨日4月12日の東京FM「サンデー・ソングブック」で、現在のコロナ騒動とそれに対する日本政府の対応に関して渦巻く国民の怒りについて語った。その発言に対して、批判のツイートをいくつか見かけた。
いわく、
「『政治的対立はやめて団結しよう、批判はやめよう』との発言にがっかりした。酷い政治や愚かで極悪なリーダーへの批判は止めるべきではない」
「すでに成功し安住を得た者の綺麗事に過ぎない」
「長年のファンだが、もう聴かないことにした」(いずれも大意)
これほどの批判が集まるからには、山下達郎はよほどの発言をしたのかと気になり、radikoのタイムフリー再生で確認してみた。以下にその発言全体を、聞こえた通りにほぼ切り取らずに書き起こす。(ただし「え〜」「あ〜」「まぁ」などのつなぎの言葉は適宜省略した)
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非常事態宣言が出されました。
それに対していろいろな声があります。普通に社会生活を送っている人にとって、家に篭って外へ出るなという、また中小の経営者にとって、店舗の営業を自粛せよという今の状況に対して不安のない方など一人もおりません。怒りのない方だって一人もおられないと思います。みんなジリジリした気持ちです。それを口にしたい衝動をみんな抱えています。
政治の不甲斐なさ、不明確さ、いつものごとく官僚の責任意識の曖昧さ、行政の拙速さ、企業の保身、メディアの的外れetc., etc….
私くらいの年齢になりますと、いったい裏で何がうごめいているのかと、いろいろと想像が膨らんでしまいます。こういう現状の中で生まれる数々の不条理への戸惑いとか鬱憤、苛立ちを抑えきれずに、ある人はそれをネットに噴出させ、ある人はメディアを使ってぶちまけています。
そうしたい気持ちは痛いほどわかります。私だって思い切り怒鳴りまくりたい衝動があります。でも、そんなことをしても、ウイルスがなくなるわけではありません。毎日毎日メディアに登場する細部をつついては批判と罵倒に明け暮れている、そういうものが人々の不安をどれだけ煽っているか。なぜもっと寛容な、建設的な言動、行動がとれないのか、不思議でなりません。
私はそうした政治的な言説にあまり深く立ち入らないように努めているんですけれども、でも今一番必要なのは、政治的利害を乗り越えた団結ではないかと思います。今、政治的対立を一時休戦して、いかにこのウイルスと戦うかを、この国のみんなで、また世界中のみんなで助け合って考えなければならない時です。
何でも反対、何でも批判の政治プロパガンダはお休みにしませんか。責任追及とか糾弾はこのウイルスが終息してからでもいくらでもすればいいと思います。再三再四申し上げているように、こういうときは冷静さと寛容さが何よりも大事です。静かに落ち着いて物事を語りましょう。正確な判断は冷静さからしか生まれません。
過酷な現場で働く医療スタッフはみんな、それぞれの思いを持ちつつも黙々と戦っていらっしゃいます。スタンドプレーのメディアピープルではなくて、そういう医療従事者のみなさん、見えないところで人知れず働く方々に思いを馳せましょう。彼らを励まし、盛りたて、我々は我々ができることをいたしましょう。今は、できるだけ他者との接触を避け、感染の広がりを防ぐ努力をいたしましょう。
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この本人の声を聞き、文字に起こしてあらためて読んでみて、私にはこの発言に対して批判する感情は生じなかった。むしろ、トーンを抑えつつ言葉を選び、噛みしめるような誠実な一言一言には、幾重にも彼の感情が畳み込まれているようにさえ思えた。そのときふと思い浮かんだ人物がいる。八代目林家正蔵(彦六)である。
八代目林家正蔵という人
「笑点」のレギュラー林家木久扇がときどきものまねをする通り、正蔵の声はヨボヨボで、どうにも頼りない老人のイメージしかない。しかし普段の正蔵はかなりの「トンガリ(短気であまのじゃくな頑固者)」だったというのは有名な話で、噺家や落語関係者の証言や後日談がいくつもある。
そのうち真っ先に思い出したのは、人間国宝・十代目柳家小三治著「落語家論」 に記された正蔵に関する二つのエピソードである。
一つは、稲荷町の自宅の前で近所の子どもたちがにぎやかに騒いでいたときのことである。あんまりうるさいので、二階にいた正蔵は窓をがらりと開け、欄干に足をかけて見得を切ってこう怒鳴った。
「うるせぇ!静かにしろぃ。俺は天下の正蔵だァ!」
高座での話しぶりからはとても想像できないが、そのくらい気の短いところがあったのだという。
もう一つは、昭和30年代後半、若き日の小三治が、正蔵を座長に九州での落語会の旅に出かけたとき、次に訪れる予定の公演先から、お客が集まらないため予定をキャンセルしたいと連絡が入った。連絡を受けた小三治は当時まだ前座だったが旅の運営を預かる番頭役を任されていた。いきなりキャンセルだと伝えれば気の短い正蔵はきっと激怒し、手の施しようのない修羅場も予想される。そこで小三治は一世一代の賭けに出た。
人が右と言えば左、左と言えば右という正蔵の性格を利用することにしたのである。つまり、中止の連絡をよこした事務局へ、正蔵の目の前で電話をかけて、いかにも怒り心頭の口調でこう怒鳴った。
「いい加減なことを抜かしゃァがってふざけるなこの野郎。北風の強い日にてめぇン家の縁の下で焚き火をしてやるからそのつもりでいやがれ!」
すると正蔵は、あの震える声でこう言った。
「そんな乱暴なことを言うもんじゃないよ。向こうにも都合があるじゃないか」
計略図に当たり、うれしかったと小三治は綴っている。
自分の筋を通す頑固者
冒頭に記した通り、山下達郎は職人型に違いない。昔から、人知れず修行を重ねた職人には頑固者やあまのじゃくが多いと言われる。自らの腕への自負や信念ゆえ、人とは違う自分でありたいという意識を少なからず持っているのではなかろうか。政治的言説には深く立ち入らないようにしているという彼も、実は過去の放送内で政治に関する話題に触れたことがある。
2016年東京都知事選挙投票日の放送での発言である。21名の候補者が乱立する選挙で、候補者の中に彼の知り合いもいたとのこと。その候補について前週放送分の収録で少々触れたのだが、特定の候補に関する言及を電波に乗せるのは放送法に抵触するからと全てカットされた。
そのことについて彼は、腹に据えかねたというので投票日の放送で大いに吠えた。口調はいつもの通り淡々としていたが、よほど頭に来ていることがわかった。言うまでもなくその怒りは番組スタッフにではなく法律に対するものである。発言の要旨は次の通り。
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本日は都知事選でございます。
私はすでに期日前投票を済ませておりますが、先日こういう事態がありまして、とても腹に据えかねているわけでございます。ちょっと待て、であります。
特定の候補のことを、放送においてとはいえ一都民、一個人が発言するのはダメで、報道においてはほぼあの3人(小池百合子、増田寛也、鳥越俊太郎)のことしか言及せず、その他の候補のことは話題にすら上らない。それはアンフェアではないのか、というわけでございます。
権力とメディアの結託ぶりが見え見えなわけであります。そのようなわけで、私はたとえ死んでもあの3人にだけは投票しないつもりでした。
何が放送法だ、くそくらえ!でございます。
あぁスッキリした、エヘヘ。
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放送法に限らず、法制システム全体が意味不明な部分を大いに抱えているし、それをふんわりと受け止める市民の「空気」も実はとらえどころがなく心許ない。そのあたりも意識していたのか否か、彼はズバッと斬った。信念に従い、言いたいこと、言うべきことを言い切ったという意味で、彼は彼のやり方で筋を通したのである。
身なりが変わっても同じ人
このように、彼だってときには憤懣やるかたなしという口調で語るときもある。そして昨日の放送でも、彼自身思い切り怒鳴りまくりたい衝動はあると告白している。それはきっと本心だろう。一方それに続いて、もっと寛容な、建設的な言動、行動がとれないのか「不思議でならない」という言い方にSNSユーザーが特に反応したのではないかと想像している。怒りに震えているSNS上の人たちは、聖人君子の立場から彼が高説を垂れたように受け止めたのかもしれない。
現在のコロナ禍がもはや戦時下と捉えられ、そこへ「団結」という言葉が飛び出してくると、70年以上前のあの戦時中の「国家総動員」的イメージを重ね合わせる人さえいる。それゆえ脳内で「軍靴の音」構文が出来上がってしまった人も少なからずいるだろう。その中であえて彼が言いたかったことの根幹はもっとシンプルである。つまり「建設的であろう」「冷静になろう」「最前線で戦っている人のために祈ろう」ということである。
都知事選のときの彼は欄干に足をかけて見得を切った彦六で、昨日の放送のときの彼は電話の前で怒鳴った小三治をやさしくたしなめた彦六だっただけではないか。トンガリでも好々爺でも彦六は彦六だったように、吠えても柔らかく語っても山下達郎であることに違いはない。
昨日と今日とで洋服が違って身なりが変わるのと同じように、昨日の気分と今日の気分が違うこともある。直情的にまくしたてるときも寛容で建設的な物言いをするときも、同じ人である。日常的に顔を合わせている相手でさえ、この人にはこんなところがあったのかと気づいて驚く経験は誰にでもある。ましてや、ラジオの向こうから、あるいはCDを通して声を聞くより他にない相手が意外な発言をしたからといって「ファンをやめることにした」とまで言うのは大げさではないか。
誰もが自分自身を振り返ったとき、長年信じてきたことを大きく覆されて考えを改めることは頻繁にある。私にも嫌というほど心当たりがある。自分ほど当てにならぬものはない。まずは自分を疑うことである。つまり謙虚になることである。誰かを責めているときの自分は決して謙虚ではない。頼りにしていた相手に裏切られた気持ちになれば激しく責めたくなるのも無理はないが、もはや頼れないと心に定めたのならば、今後いかに頼らずに生きていくべきかを虚心に探ってみたほうが「建設的」である。
誰もが様々な形で困難を抱える時である。誰もが苦しんでいる。今はまず、生き抜く方法を探ったほうがよい。一人でどうにもならなくても、生きてさえいれば手助けしてくれる人もきっと現れる。
文句を言うのは生き延びた後でも十分間に合う。

