「千両みかん」と「サキちゃんのぶどう」

・目的合理性と価値合理性

 ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの提唱した概念に「目的合理性」というものがあります。ある結果を得るのに最適な手段を取ること、すなわち、手段を問わず目指す結果を得ることを第一に考えることをいいます。それと対極の言葉が「価値合理性」です。結果よりも手段やプロセスや信条あるいは大義、常識などに価値を見出し、それらに照らした行動をすることを指します。

 「千両みかん」で若旦那の父は、せがれのために千両をポンと出しました。あくまでもせがれが元気を取り戻すという結果を重視していて、それに最適な方法として千両という大金を出すことを厭わなかったのは目的合理性の例です。

 一方、万惣の主人の主張内容は価値合理性としての側面を持っています。江戸で唯一夏でもみかんを囲っているみかん問屋として、のれんに込めた商人としてのプライドを守ることに価値を見出しているからです。他の果物を保管できるはずの蔵にわざわざ何十箱もみかんを抱え込んでおくことは、経営上の観点から見れば非効率的です。それでもなお守るべき価値が問屋としての誇りだったわけです。

 現代の経営あるいは学びにおいて、まずはゴールを設定せよと言われるケースが多く見られます。そしてそのゴールに至る最適なTo Doリストを作り、それをこなしていくのが合理的だというわけです。このような合理性が目的合理性です。結果最重視で最適なプロセスを追求するのが、経済的にも効率的にも理にかなっているというわけです。しかしながら、必ずしも効率的とは言えない万惣の主人の矜持にも、私は魅力を感じます。どちらが正しいかというより、どちらも理智にかなっていて美しいと思うのです。

・向かう先の異なる慈悲

 「サキちゃんのぶどう」の法話に先立ち、桐生俊雅師は弘法大師の言葉として次の一節を引いておられます。

「菩薩の用心はみな、慈悲をもって本とし、利他をもって先とす」

 この言葉の意味は、仏さまの心は慈悲がすべてである。相手を思いやる心。相手の苦しみや悲しみを取り除いてあげたいという心を持ち、相手のことを思って行動しましょう、というすすめであるとしています。

 慈悲や、相手を思って行動することを勧める言葉は、道徳的な教訓として人口に膾炙しています。その言葉自体にあえて異を唱える人は多くはないと思いますが、サキちゃんのお父さんがぶどうを買いに行ったデパートの店員と、万惣の主人を比較した場合、どちらのほうがより慈悲的で他人を思った行動をしたかを考えると、結局千両を請求した万惣の主人よりも、一房のぶどうを無駄にするという犠牲を払った店員に軍配が上がりやすい気がします。しかし私は、万惣の主人もまた、デパートの店員とは違った観点から、十分に慈悲的で他人を思っていたといえると思います。

 「千両みかん」でも「サキちゃんのぶどう」でも、いずれも人の命がかかっている状況がありました。万惣の主人もデパートの店員もそれらの状況をある程度把握しながらそれぞれの対応をしました。デパートの店員の慈悲はサキちゃんが病気と戦っている状況とお父さんの献身に向かいました。一方、万惣の主人の慈悲は、たとえば自分の店の従業員に向かっていたと捉えられないでしょうか。長年にわたって、毎年蔵を無駄にして、腐ることを承知でみかんを囲っていれば、その分だけ問屋としての収入源を圧迫してきたわけです。みかんを蔵に保管する労力は従業員が提供し、それに対して主人は日頃から十分に報いてきたであろうことは想像できますが、みかん問屋としての誇りを保つのに固執するよりも、もっと効率よく利益を上げられる「目的合理的な」経営をしていれば、さらに従業員にトリクルダウンがもたらされたかもしれない。しかし、あのみかんが千両で売れれば、固くプライドを守る方針に長い間おとなしく従ってきてくれた従業員に今こそ大きく報いることができると考えた可能性もあります。

 人は似たような状況においても、それぞれの立場や環境でさまざまな対応をしますが、どのような行動が正しいかを判断するには、表面的なことよりもその動機について考えを巡らす想像力があってもいいと思います。何を重視し、固く守ろうとしているかは人によってまちまちです。したがって、そのことに対する評価も、一様かつ短絡的に断定しにくい場合もあると思います。そういった判断の困難さに目を向けることが、寛容の第一歩であるような気がしています。

・寛容の能動性

 寛容とは、人に対して惜しみなく理解と愛を示すことだと私は捉えています。人の判断や行動には状況に応じた意図や目的があり、いずれも自ら合理的と信じるに足る理由を踏まえた上でそれらの決断を下しています。「千両みかん」「サキちゃんのぶどう」の登場人物は、それぞれ能動的な自分たちの判断に基づいて行動していて、それなりの根拠があります。そういった能動的な行動を、傍から見ている者がただ受動的に受け取って反射的に良し悪しを判断する前に、まずは一呼吸置いて、自らの意思に基づき(=能動性)これらの人を取り巻く状況は何だったのか、他の方法ではなくてこの方法を取った理由は何だったのかについて想像力と理性を働かせる余裕を持つことこそ、寛容の本質ではないでしょうか。そうすれば、凶器のような言葉が飛び交う機会は減り、その分だけ穏やかな教養を培うことができるのではないかと私は思念しています。

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