ポストの流れ―――――――――
・言葉の辞書との関わり
・「舟を編む」
・「辞書を編む」
・碩学への畏敬の念
・たった一言で変わる反応
・家族も巻き込んで
・語の選定と語釈執筆の基準
―――――――――――――――
言葉と辞書との関わり
つい先日まで、ある米国の酪農関連雑誌の日本語版発行に伴う翻訳の仕事に携わっていました。言葉を扱う仕事ゆえ、細かい単語一つまで大いに気を遣います。原文の英語を正しく読みこなすこと以上に、訳文が日本語として不正確、不自然にならず、どんな読者でも違和感なく理解可能な文にすることを最大限心がける必要があります。したがって、常に丁寧に辞書を引いて確認することが欠かせません。
言葉と深く関わってきた私と辞書との間には切っても切れないつながりがあり、高い関心も持っています。そこで今回は、辞書を題材とした作品を2作取り上げます。
「舟を編む」
まず、三浦しをん著「舟を編む
」です。出版社での辞書編纂を媒介にした人間ドラマで、映画化もされましたのでよくご存じの方も多いと思います。
作品の中で、長年にわたって編纂作業の行われた「大渡海」という国語辞書の名称には、「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」という意味を込めたとされていることからも、どちらかというと叙情的、情緒的な印象を強く感じます。
映画
では、辞書編集部のメンバーの中で特に言葉に対する感性が強く、辞書作りへの資質が高かったのは主人公の馬締光也(マジメ君=松田龍平)でした。後に宣伝部に配置替えされた西岡(オダギリジョー)とファッション誌編集部から配属された岸辺みどり(黒木華)は、辞書作りのことを、地味で面倒極まりない作業と捉えていました。
ところがその二人も、新たに与えられた環境で次第に熱意を持ってそれぞれの仕事に取り組むようになりました。西岡は元来の対人スキルの高さを活かせる環境に移ったので納得しやすいのですが、みどりの変貌に至る経緯については、映画では微かな違和感を感じるおそれもあると思いました。
一方、原作ではそこに至るまでの事情も緻密に描かれており、辞書作りへの姿勢が徐々に変わっていった様子が伺えます。ある時、みどりとマジメ君との間で「愛」という言葉の語釈に関する見解の相違が生じました。みどりはマジメ君と堂々と渡り合い、その解釈はおかしいと『勝ち誇り、胸を張った』『馬締の言葉をさえぎって断定した』とあることから、まさにこれから掲載されようとする語に対して、自ら積極的に関わっていこう、責任を持って関与しようとしている様子が垣間見えます。
このような成長の喜びをはじめ、うまく事が運ばない怒りや哀しみ、泊まり込みで取り組んだ校正のやり直し作業が無事に終わったときの達成感など、人間の持つ喜怒哀楽がスマートに織り込まれた、一つの「人情噺」とも言えます。
編集主幹の松本先生(映画では加藤剛)が大渡海の完成を見ずに他界してしまう残念な場面もあるものの、作品の最後には、再び前を向いて歩いていきたくなるような、穏やかで満ち足りたような気持ちが残ります。
映画版に話を戻すと、私にとって特に印象深かったシーンは、マジメ君が下宿していた「早雲荘」の様子です。マジメ君以外は誰も下宿人がおらず、家主のタケおばあさんの好意で、いくつもある部屋や廊下を書庫として好きに使わせてもらっていました。「文字を追っていないと死んじゃうよ〜」というほどの本好きな私にとっては、実に羨ましい限りです。余談ですが、Twitterで、ある方が「図書館に住みたい」とおっしゃっていました。その方にとっても、きっとマジメ君の書庫は垂涎の的だと思います。
また、印象的なセリフもタケおばあさんのものでした。いわく、
「他の人の気持ちがわからないなんて当たり前じゃないか・・・(中略)・・・辞書作りっていうのは、言葉を使う仕事だろ。だったらその言葉、使わなきゃ!」
言葉を使う。こうしてキーボードを叩いている瞬間にも、深く沁み入ります。


「辞書を編む
」
わからないから伝えたい、辞書作りを知ってほしいという願い
「舟を編む」の著者三浦しをんがこの本の帯に推薦文を寄せていて、この作品のことを、殺人事件ならぬ「辞書の誕生事件」と表現しています。
著者は飯間浩明という日本語学研究者すなわち学者です。研究活動の中心が辞書の「編纂」で、三省堂国語辞典の「編集」委員です。編纂と編集にそれぞれカッコを付したのには理由があります。
著者はこの本の「はじめに」の部分で、編纂と編集を別物として区別しています。編纂とは、材料(言葉)を集めて辞書の原稿を書くこと、編集とは、その原稿をまとめて書物の形にすることです。著者はあくまでも編纂者なのですが、「纂」の字が常用漢字ではないため「編集委員」を名乗らざるを得ないそうです。
このようなことについて、著者が講演などで説明しようとすると、聴衆はわかったようなわからないような顔をすると言います。講演の本題に入る前に自己紹介として自分の仕事について簡単に説明しようとしても、短い時間ではうまく説明しきれないというのです。
幸い私は翻訳者としての経験上、これらの二つの言葉の違いをイメージできます。翻訳やその後の校正・校閲は、雑誌に載せる記事の原稿そのものを作ることですから「編纂」に近い。一方、出来上がった原稿をページの順番に並べ替えたり、文字数を足したり削ったりしながら配置する作業(「台割り」といいます)やコンピューター画面上での整頓は「編集」に近い作業です。
ところが、編纂にも編集にも携わったことのない一般の人によく理解してもらうことは、短時間では難しいと著者は言います。そこで、根本の用語の定義から始めて丁寧に解説したいという願いからこの本を書いたそうです。
「舟を編む」の雰囲気からも推し量れるように、辞書を作るのは一見地味で目立たない仕事のように思われがちです。しかし実際にはとてもエキサイティングで刺激や魅力のある面白い仕事だということを力説しています。自分の仕事に誇りを持ち、愛している何よりの証拠です。
それらのテクニカルなことを軸に、自分の仕事のことを終始一貫大真面目に説明していますが、言葉が平易でわかりやすく、言葉の選び方・定義・使いどころにも十分に気を配っているのでとても読みやすい本です。
碩学への畏敬の念
辞書作りにおけるメインの作業は、用例採集と語釈執筆です。用例採集は、作ろうとしている辞書に最終的に掲載されるか否かはともかく、目にしたり耳にしたりした言葉を片っ端から集めることです。テレビやラジオ、新聞、雑誌、町の看板、人と人との会話に至るまで、毎日常にアンテナを張って、新たに知った言葉をひたすら集めます。
この用例採集との関連で著者は、自らが国語辞典、特に三省堂国語辞典(略して三国)を作ることに興味を持ったきっかけを述べています。三国第1版から編纂に携わった日本語学の碩学・見坊豪紀(けんぼうひでとし)に畏敬の念を持ったのが始まりだそうです。見坊が三国の編纂に携わるようになって以来、実質30年ほどの間に、なんと145万語を採集したそうです。年間4,000語、すなわち毎日130語以上を集め続けたといいますから、まさに超人的です。
超人的な人やものに憧れや尊敬の念を抱くことはよくありますが、その人の元へ行こう、門を叩こうと心に決める人は多くはないでしょう。著者はきっと、言葉への関心だけではなく、この驚くべき日本語学者、見坊を慕う心がよほど強かったのでしょう。
用例採集された言葉は後に選別され、一般的な辞書にはなかなか載っていないものであっても、広く浸透しているものと判断すれば掲載されることがあります。とはいえ、せっかく集めてきた言葉もすべては掲載できませんので、大部分を泣く泣く外さねばなりません。その意味で辞書作りは、足し算ではなく引き算の作業ともいえます。
たった一言で変わる反応
この本では、採集に伴う興味深いエピソードがいくつも記されています。商店街を歩いていて、面白い言葉を見つけると、それが書かれている看板をカメラで撮影することがあるそうです
ある時「ガチャぽん」という言葉が目に飛び込んできました。それを撮影しようとすると店の人が慌てて飛び出してきて、撮影はご遠慮くださいと言う。「実はかくかくしかじかで研究をしておりまして」と言うと、「研究?何の研究ですか?」と、いぶかしそうな表情を崩さない。そこで著者はまた困り果ててしまう。何しろ冒頭に書かれていた通り、自分の仕事を短時間で説明しきれないのですから。
そこで名刺を取り出して渡すと、「三省堂国語辞典 編集委員」と肩書が書いてある。受け取った店の人はそれでもまだわかったようなわからないような顔をしている。この部分を読んで思い当たりました。「あぁ、『舟を編む』で書店に営業に出かけたときのマジメ君みたいだな」
また別の機会には、あるタレントショップで、同じく看板に書かれた「オフィシャルショップ」という文字を撮影しようとすると、そこでも撮影はご遠慮くださいと言われた。そこで今度は研究とは言わず、「調査をしてるんです」と言ったら、にこやかな顔で「あぁそうですか、どうぞどうぞ」と言う。研究と調査。たった一言で反応が正反対になることがあるというこの実例を、興味深く読みました。
家族も巻き込んで
他にも、「ヘップサンダル」の語釈を書くときのエピソードもありました。ヘップサンダルとはどういうものかを知らなかったものの、店先に並んだ品物を見ると、カジュアルなスリッパのようなものらしいということまではわかった。ところが語釈を書くとなるとその語源も気になる。調べているうちに、映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンが履いていたことに由来するという一説に行き当たった。そこで「ローマの休日」をレンタルしてきて、ファッションに詳しい著者の奥さんと一緒に終始ヘップバーンの足元ばかり追ってみたものの、それらしいものを履いているシーンはなかった。そこでさらに詳しく調べて見ると、ヘップバーンが実際に履いていたわけではなくて、それを最初に作ったメーカーが、彼女のイメージに合わせて開発したのが始まりだとわかったと言います。
サンダル一つをここまで徹底的に調べて正確を期すのは、語釈執筆に先んじて自ら校閲をしているようなもので、責任感や仕事への誇りだけにとどまらず、まさに執念の為せる業と言えるでしょう。
語の選定と語釈執筆の基準
掲載される語の選定基準は二つで、いずれも「かがみ」の語で表現しています。
1. 規範主義・・・新聞・文学に出てくる語中心(「こうあるべき」「本来はこうである」という模範的な言葉)=鑑
2. 実例主義・・・現実世界(町の中など)で目にし、広く定着している言葉=鏡(世の中を映し出したもの)
「舟を編む」で松本先生は「大渡海」の編集方針として、時代を映す「今を生きる」辞書にすることを挙げていました。つまり、一方で規範主義を重視しつつ、実例主義も疎かにしない「鏡」としての辞書を目指していたと考えられます。
三国は、広辞苑や「大渡海」のような二十数万語規模の辞書とは違い、収録語数が八万語あまりで、想定される利用者を中学生以上に設定しているため、必要最低限にして十分なボリュームに抑えなければなりません。したがって、中学生が読んでも大意をつかむことができ、しかも簡潔で短い語釈でなければ紙幅が足りなくなります。
その困難さを示すのに、「中間子」の語釈を例に上げています。広辞苑で「中間子」の語釈を執筆したのはノーベル賞受賞者湯川秀樹の後輩にあたる学者と考えられるそうです。7〜8行を費やして、原子核、ベータ崩壊、レプトン、光子、転化、ハドロンなど、極めて専門的な言葉がずらりと並ぶ。専門知識を持たない者には要するに何のことだか見当がつかない。
そこで三国では、「つまりこのようなもの」という大まかなイメージがつかみやすく、ギリギリの本質的な部分だけは外さない語釈を目指しています。
「中間子」=「素粒子の一つ。陽子と電子との中間の質量(電子の約200倍)をもつ。メソン。
たったこれだけです。
これほどの記述を追求できるのは、徹底して読者本位の姿勢を保っているからでしょう。このように、「あくまでわかりやすく」という原則を定めて、それを守り抜いて辞書作りに当たる人たちこそ、真の職人と呼ぶにふさわしいと言えます。
現代は、「しょせん言葉は道具だから、変わっていくものだから」と安易にうそぶいて、「規範主義」を一顧だにせぬ風潮が広がり、自分の意図にできるだけ近い言葉を相手に届けようとする心づくしが姿を消しつつあるように思えます。
言葉の定義を調べるという目的のためだけではなく、ときにはじっくりと眺めて、一つ一つの語釈に潜む辞書編纂者の苦闘の跡と、そこに込められた配慮を追ってみるのもきっと興味深いことと思います。
